英子の成長記
2021.2.18 更新日期:2022/02/28
私、山口英子1951年日本長崎県佐世保市生まれ、父山口卯之吉(旧姓大津)1909年長崎生まれ東京帝国大学独法系卒、母典子1914年佐賀生まれ佐賀成美高等女学校卒。 母は松浦姓から実家の父の姉(伯母)が子供がいなかったので養女になったのです。
今年私は古希を迎えました振り返れば長い人生の間には楽しいことよりも苦しいことが多いという事に70迄生きてきて色んな体験や経験を重ねた結論がそれでした。私の両親は息子を亡くし苦しい一生を送ったのですが、それに比べれば私や家族たちは皆元気で生活していますから幸せな方だと思います。こんなにも遠いところに嫁いでしまったことは母には申し訳ない思いと娘には私が、外国人の母なので色々不自由な思いと、かなり迷惑をかけてきたと思います。色々な場面で助けてくれたことに感謝します。どこの家庭にも表からは見えない苦労が隠れているものですそれを我慢して努力しながら妥協をしながら人生を終らせて魂を磨いていかないといけないのだとやっとこの歳で気がつきました。主人には生活の面などでは何不自由なく暮らさせてもらって実家の母の援助もしてくれたことに感謝しています。
父の一生は37歳までは普通に平凡に暮らせたのではないでしょうか。父は終戦を山口県の防府市(三田尻の福島人絹の会社で工場長をしていました今の協和発酵の場所です)と母は伊万里で迎えたのだと思います。途中父の実家の没落それによって長崎の八幡町や伊良林の40ほどあった家の全ての家屋を借金に取られて一家は多分稲佐山の下にある昔は船で渡り別荘にしていた平戸小屋と言う場所に移り住んだのだと思います。その為に爆心地から離れた場所にいた兄弟姉妹は原爆の被害はある程度少なく済んだのではないでしょうか。母もまた32歳で後の人生は虚しさと共に生きてきたのでしょう。
私は今年70歳になりました人生に学歴なんか必要無いというのが私と姉の考えでした学校の先生(教師)になりたくなかった父親そして私も学校の先生(教師)とだけは一緒(結婚)にはなりたくないと思っていたのにそうはならなかった人生は皮肉な物です 。2021年
姉和子7歳、叔母千枝子34歳と父母と私1951年春ここに亡くなった兄が生きていたら14歳になっていました。疎開先の母の実家で病気(自家中毒)で亡くなったのですが、口うるさい松浦の祖母と一緒にいることは兄にはストレスだったのでしょう兄はとてもデリケートで心が優しく繊細な性格だったそうです。私の母方の祖母はとても気位の高いとても口うるさい人でした。ここからそして敗戦を迎えて我が家は崩れながらも家族をやっていくのでした。でも8人の孫の中で一番末だったこともあるのか私の性格が好きだったのか私と姉が祖母には一番可愛いがられたのでした。父は複雑な気持ちだったでしょう。母の実家で息子が、死んだ事を父は母を責めたりした事はしなかったようです。私の主人なら許さなかったでしょう。私は父親に叱られたことは一度もありませんそれは姉も同じでした。母親にはよく叱られましたが、父は大人しく真面目で馬鹿正直で今思うと人生が思いどうりには行かず時代の波に翻弄されながら生きていた父は気の毒だったんだと思うようになったのは私が30代後半頃でした。
伊万里母方の祖母の実家の屋敷にて 何かのお祝いに集まっているのでしょう1937年秋私が生まれる14年前叔母千枝子、祖母エツ、従姉邦栄、母典子、従兄俊輔、祖父の姉シゲ(私の戸籍上の祖母です)、兄修、父卯之吉、私の兄は終戦の一ヶ月前に8歳で亡くなりました。私の兄が生きていたら今年で84歳になります。生きていてくれたら私達姉妹と父母の人生は違っていたでしょう戦争の被害は我が家にもかなりの影響を受けました。この家はその後何人もの人手に渡り今は更地になって草がぼうぼう生えていて昔を偲ばせる物は塀だけになっています。
松浦エツ私の祖母です私の山口の祖母はエツの夫(私の祖父)の姉になります私の母の伯母さんが未亡人になり子供がいなかったので母が4歳の時に山口の養女になりました。この500坪ほどのお屋敷は松浦の祖母の生まれ育った場所で私のひいおばあさんの世話をした祖母エツの妹のトモさんがこの土地をもらったそうです。そしてトモさんのご主人がシアトルのアメリカ暮らしが長かったので、洋風の家に建て替えたのです。一階と二階に水洗トイレがあってとても珍しかったのを覚えています。階段もお客様用と女中さん用と二つありました。松浦の祖母は兄が一人いて百太郎、イマ、カネ、エツ、トモの4姉妹でした。この家の持ち主のトモさんは母の叔母にあたる人でしたが、人の不幸の上に築いた幸せでしたので、その幸せは長続きはしませんでした。
1940年代頃のようです。戦後人手にわたり何度も持ち主が変わったこの家を主人が買ってもいいといってくれましたが、市役所に勤めていた従兄弟に止められました。税金は高いし土地を切り売り出来ない場所に建ててあるのでやめなさいと言われやめたのです。今はもう従兄弟は亡くなりましたが、感謝しています。交通がとても不便な場所なので正解でした。その頃の台湾は不安定な時代で戒厳令がまだありましたので日本に家を持ってるほうがいいのではないかと考えていました。でも考えた挙句台湾に家を買って今は良かったなと思います。台湾の人達はほとんどの人が(限られた人たちですが)アメリカに移民していた時代でした。
1940年頃の叔母さん松浦千枝子(伊万里のお屋敷にて)私の叔母さんはこのお屋敷の前に有る隠居所として作られた家を祖父が建て替えた後にすぐ祖父は亡くなりその後祖母(エツ)と叔母が二人で暮らしていました。畑と庭があっていつも花が咲いていました。夏休みに遊びに行くと井戸にスイカが冷やしてあって手回しのミキサーでよくミルクセーキを作って食べさせてくれました。厳しい人でしたが、優しい人でした。私と姉は千枝子姉ちゃんとよんでいました。叔母は朝晩般若心経を読んでいたので私も小学生でしたが覚えていましたが今は忘れてしまい半分位しか覚えていません。
チワワのラッキー佐世保山手町1962年頃私の命の次に大事な犬でした甘い柿の木とくちなしの花の木と桃の木と南天の木が庭にはありました。台湾の家はほぼ庭がある家はありません。ですから花の市場でこれらの木を見るとこの頃を懐かしく思い出します。父は戦後は今までのエリートの人生がひっくり返り40歳で高校の先生になって私達を育ててくれました。あの頃は日本中が貧しかったですが、振り返ればささやかな生活の中にも未来に希望だけは持ちながら生きていたと思います。小学3年生から6年生迄先生はあなたのお父さんは帝国大学を出ているのにと、よく嫌味を言われていました私は勉強は嫌いでした。私は学歴のない父親でも平和で家庭的な父親がほしかったのです東京大学を出ていても不幸な人はいっぱいいます勉強だけをそれのみをして来た人は他の部分の対応があまり上手ではないようです更に挫折には特に弱いと思います。ラッキーの写真はこの一枚だけしかありません。父の不注意でラッキーを無くしてしまいましたこのことだけは今でも私は親である父を恨んでいます高校の制服の支払いを待ってもらったり高校の修学旅行に行かなかったりしたのは何とも思っていません恥ずかしいとも思いませんでした。お金が無いのだから仕方ありません。でもわざわざ長崎の父の知り合いから分けてもらった犬と楽しく生活していたのにくださった方にホントに申し訳ないと大きくなってから思いました。私がチワワが欲しいと言わなかったらラッキーは長崎の家で幸せにかわいがられていたはずです父が酔っぱらってタクシーになぜか乗せて何処に行こうとしていたのか早岐のガソリンスタンドでうちの近くの八百屋のおじさんがタクシーの運ちゃんをしていてドアを開けた時に外に飛び出したらしいのでガソリンを入れるためにそこに止まったのか?父親が、おしっこがしたかったのかもしれませんが、いなくなったそうです佐世保の山手町からはとても遠くラッキーが走って帰れないところでした。母がバスに乗って探したりしましたがダメでした昭和37年頃の8月30日の事です。悪いのは私の父でその運ちゃんも動物が好きな人なら又違っていたかもしれません私の父はアル中でした。あの後ラッキーはどれだけうちを探しただろうと思うと悲しくてやりきれませんでした。この頃から私は酒を飲まない人と結婚することを心に誓ったのです。今なら広告などを出して何とか見つけ出すのでしょうが、小学生の私にはどうすることもできませんでした。私は何故こんな家に生まれたのだろうと思うようになっていました。父はもっと母に息子を死なせたことを怒鳴り散らせば良かったのです。酒の力を借りずに周りに思うままに思いっ切り腹を立てたら良かったのです。我慢なんかしなくてもよかったのです。私の母方の疎開先の祖母(松浦エツ)に怒鳴っても良かったのです。父は37歳から亡くなる60歳迄の人生は生きていても心は死んでいたのだと思います。気の毒な人生でしたが、最後亡くなるときは普通に会話してたのにソファーで深呼吸を3回してから亡くなったのですが、きっと神様が最後は楽な死に方をさせてくれたのだと思いました。それだけは幸せだったと思うのです。
長崎に東京から帰省した父と叔母夫婦と従妹従弟1929年頃です。長崎の父の実家の写真は残っていません。私の兄が亡くなった時に父は気力を無くし絶望してアルバムを全て燃やしたそうです父の実家は貿易商で母方の祖父はリンガー商会の支配人をしていました。私の父方の祖母トモはいつもトーマスグラバーの息子さんとグラバー邸の庭で遊んでいたそうです。この頃は世界大恐慌の時代で実家の祖父は先物取引でかなりの財産をなくしたそうです。栄枯盛衰栄えたものは必ず滅びます。それが世の常です。
お正月か七五三に着物を着せてもらっているのだと思います1956年頃
テリアのロン、ロンは私達が佐世保の梅田町に住んでいた頃に姉が拾ってきた保護犬でしたロンはラッキーの前に飼っていた犬です。
姉16歳と 私9歳とロン山手町 1960年頃です後ろに昭和の懐かしいゴミ箱があります姉とは7歳も違っていたのでいつも犬と遊んでいるか近所の仲良しとあそんでいました。
伊万里の叔母の家の畑にて1955年頃叔母37歳
佐世保の家の庭で石蹴りなどをして遊んでいました。高校の教師の父でしたが,あまり生活に余裕はありませんでした 。この頃の楽しみはチワワのラッキーと遊んだり幼馴染と近くの山に登ってアケビを食べたりと自然の中に遊びを見付けていました。冬のボーナスが出た後に奮発してクリスマスは京町にある喫茶店白砂家の大きなケーキを母と買いに行くのです。それをラッキーと食べるのが、とても私には幸せなことでした。
1963年佐世保北高の運動会にて姉の友人と私12歳
山手小学校2年生前例右側2列目から二人目 1959年春 三列目の中央の城崎賢一郎君とはいつも席が隣でした。その左隣の牟田和敏君のお母さんとは犬捕りの保健所でお互いの犬を受け取りにいった時一緒で私と母と牟田君のお母さんと二匹の犬とでタクシーで桜馬場から山手町に帰りました。担任は藤島先生でした。その後、花園中学校に進みましたが、その場所は今は私の母校(九州文化学園附属高校)の中学校と小学校になっているようです。あんなに学生が多かった花園中学校はどうして無くなったのでしょう?私は14歳の時に雷に打たれると、言うのに相応しい初恋をしました。でもその人は3300年前のツタンカーメンでした。十代の頃は歌手や映画スターなどがあこがれの対象ですが、私はそれはあまり有りませんでした。
修学旅行六年生長崎原爆平和公園二列目の左から三人目1963年春 その後転校後に葉書をくれた可愛くておませな北川陽子ちゃんはお元気でしょうか?永見喜久代ちゃんには修学旅行の時にお世話になりました。この時長崎のペンギンランドに立ち寄った私は、トイレから集合場所までの所が分からなくなってしまったのですが、神近光代ちゃんが、待っててくれてバスまで連れていってくれました。光代ちゃんはとても勉強ができる人でしたが、落ちこぼれの私に親切にしてくれる人でした。中野成子ちゃん立石和子ちゃんともよく遊んでました。ある日、私達の小学校の全員にコカ・コーラが配られたことがありました。私と同じクラスのガキ大将だった木村君とコカ・コーラとロゴマークの赤い鉛筆を取りに行ってクラスの皆に配りました。60年近く前の事でそれから私達はティーンエージャーになりいつもコカ・コーラやファンタオレンジを飲むようになったのでした。あの頃のアメリカはとても豊かで羨ましく思ったものでした。
1966年九州文化学園 高等学校入学 中央の校長先生の後 が、私です楽しい三年間でした。その三年後父は私が18歳の時に亡くなりました母は長命でそれから43年後2012年私が61歳の時に98歳で亡くなりました。安部校長先生右隣峰教頭先生左隣担任の徳村先生二年生の時は荒木尚先生三年生の時は校長先生のご長男の芳樹先生で皆さんにとても良くして頂き感謝申し上げます。購買部でお昼を手伝っていましたが楽しい時間でした。礼儀作法やお掃除などにとても厳しい学校でしたが、そのことが苦になったことはありませんでした。
1968年 高校生夏の制服の私と竹馬の友の龍子ちゃん17歳私たちの付き合いは8歳からもう62年になります 今も主人と大阪に旅行に行くと必ずホテルまで神戸から会いに来てくれます。龍子ちゃんにも孫が生まれ今はその手伝いに忙しそうです。私の孫たちも高校生になって丁度この頃の私たちと同じです。龍子ちゃんは私の両親が、とても好きで何時でもいやな顔をせずに迎えてくれたことなどをよく話しています。私の父はお酒を飲まないときは穏やかな人でしたし母はいつも人に施す人でした。私が知らなかった出来事をとてもよく覚えていてとても懐かしい私の両親の話をしてくれます。
夫となる宗仁との出会い 1972年秋 主人とまだ国際結婚が珍しかった頃ですが、なんとなく心が惹かれたのとお酒を一滴も飲まない人だったからです。この人と一緒になったら家庭は平和だろうと思っていたのでした。主人は私の父とは、ま反対の人で、短気な人でした。お互いのホントの性格は結婚してから段々とわかることで、全く違う国、違う家庭で育ち文化も習慣も違うのですから主人も何もわからず連れてきた私に悩んだでしょう。私もとても悩みました。私は日本で就職をしてくれるのだど思っていましたが、主人はやはり自分の国で働いたことは正解でした。多分日本の大学に就職しても日本人独特の習慣にはついてはいけなかったでしょうし長くは続かなかったでしょう。私が台湾の習慣や文化などに合わせていくことが、私の性格から人に合わせるのは嫌では無かったから可能だったのです。その分自己主張はあまりしません。だからこの国で主人ともこんなにも長い間一緒に歩んでこれたのでしょう。主人は台湾人(戦前から住んでいる人達)です。戦後に蒋介石と中国から来た百万人の人たちを外省人と呼びますが、この人達の父親や夫はほとんどが軍人です。人口は圧倒的に本省人と呼ばれる台湾人(80%)が多いです。外省人と結婚するの悪くないかもしれません。彼らは外では働いて家の中では家事を一切やってくれて食事も作ります。奥さんは何もしなくてもいいのです。
高千穗に運転免許取り立てだった主人のポンコツ車でドライブに行ったのですが、途中溝にタイヤがはまってしまったのですが通りがかりの親切な人が助けてくれました。今なら怖くて乗らないでしょう。1972年11月
平戸にドライブ私の実家からは近いです
21歳私は50年ほど前に髪を染めていたので今はグレイヘアにしています。当時はまだミニスカートが流行っていて歌舞伎の緞帳というのか幕というのでしょうかその柄のセーターが流行していました。
平戸のお寺
1972年11月雲仙にて
台湾に出発する日結婚式をする為 福岡の新婚生活 1974年6月主人28歳私23歳。
福岡の荒江四つ角のアパートに住んでいたころは主人とても勉強家で真面目な人でした
1974年の冬福岡の西区のアパートでの新婚生活で長女が産まれるまで東南アジアの輸入小物を扱っている会社で事務をしていました。その会社の先輩の事務の女性はとても親切な方で一つ一つ事務の基本などを教えてもらい(バランスシート)貸借対照表や源泉徴収などのやり方を習いました。そこでソロバンを覚えて今も毎日家計簿を付けています。その方にはとても感謝しています。子供さんが三人になったと聞きましたが今は何処におられるのかはわかりません。実家は飯塚だと聞いています。もう一度会いたい人です。日本人はエプロンを着けけますが台湾の女性はしません私は今もエプロンは毎日着けています。荒江の四つ角のアパートに住んでいる頃でしたが近くのある公務員の宿舎で母娘の心中事件が起きてお母さんと中学生と小学生位の女の子が亡くなりました桃のお節句だったのでちらし寿司の出前の器がおいてあって小鳥が二匹死んでいてガス自殺でした。この旦那さんは42歳で奥さんは夫の女性関係で悩んでいたと言うのが原因でした私は他人事ながらこの旦那さんに非常に腹が立ったのを覚えています。この旦那さんが存命なら87歳になっているでしょう。娘さん達も生きていたら50代後半になっていたはず人の力ではどうにもならないことがあるのだとつくずく思うのでした。この世はどうしてこんなにも辛いことばかりなのでしょう。
1974年6月台北国賓飯店で結婚式 このブーケは博多のデパートで注文し作ってもらったものです私が作ったリボンフラワーのブーケは主人の姪のフラワーガールに持っていきました。当時リボンフラワーが日本では流行っていたのですが台湾では花が安くて本物の花でもよかったのですが台湾の事情はその時私はわかってないので、でもこのブーケを主人の父がとても気に入り綺麗だからと硝子ケースに入れて主人の実家に飾っていました。主人の父はとてもオシャレな人でした。結婚式の時には99パーセントの人がラブラブでしょう。1パーセントの人がたまに大丈夫だろうかと思いながら結婚式をするかもしれません。私と主人も99パーセントの中に入りましたが、その後夫婦のおおかたの妻(たまに夫)は人の心は変わるのだと言う事を人生の途中で経験するのでしょう。虚しい事です。作家の瀬戸内寂聴さんが、いつもおっしゃっている言葉に雷が落ちてきたら防げないのだと、別の人を好きになるということは、その雷に打たれるしかないと言っておられました。確かにどんなに愛し合っていても防げないことは人生にあるのです。どんなに愛を神様の前で誓ってもそれは無意味な事でしかないのです。数千年前もアブラハムとサラの時代から人は間違った道に進んでしまうのです。
夏の絽の着物は、母と伯母が着せてくれました。この時付けていた翡翠のイヤリングとハートの指輪は、兄嫁とお揃いで主人の父から頂きました。この時のイヤリングは古希のお祝いの時にもつけました指輪の方は娘が結婚する時にあげました。
台北の主人の家です頂いた花籠もやはり赤い薔薇です白いブーケを持つと親戚から色々いわれますよ、と私の髪をセットしてくださった日本人の美容室をやっている方に教えてもらいました。丁度私はピンクのブーケを持ってきていたので良かったと思ったのですそうゆう台湾の習慣は主人からは聞いていていなかったのでこの方の助言は助かりました。
台北の主人の家で主人の両親が作ってくれた中国服を着ていますこちらの習慣ではお嫁さんは赤い色を付けることを縁起がよいとされる為私の髪飾りは真っ赤な薔薇を美容院の方が後ろにさしてくれましたその時は内心ブーケとお揃いのピンクの薔薇が良かったのですが郷に入っては郷に従えですから美容室の日本人の方の絶対に赤い薔薇でないとだめですと言われてそうしたのでした。
結婚式 国賓飯店主人の両親私の母と伯父これは結婚の登録をしているところです主人と私の代わりに主人の甥と姪が印鑑を押しているところです。父親の代わりに伯父が、台の上に上がってくれました。伯父は小学校の校長先生でした。
台北国賓飯店主人の両親と私の母主人の母が着ているレースの茶色のチャイナドレスは私が博多のデパートの生地コーナーで主人と選んだ品です確か台湾に持って行って専門の人が家にきて寸法を測り確か翌日とかに仕上がっていたようでその速さにビックリしたのでした。
台北国賓飯店摘星閣(星を摘む場所の意味です)兄夫婦と主人の両親。主人の両親は、日本教育を受けていましたので日本語が話せました。3人の姉も同じで兄嫁も少し話せました。とても親日家だったので私との結婚はあまり反対されませんでした。
私達の結婚式の手伝いをする主人の甥と姪たちフラワーガールで一番大きな姪は私と同い年です1974年6月左から四姉の長男三姉の長男三姉の次女大姉の長女三姉の長女前列左四姉の次女五姉の長女その時主人には上は23歳から下は8ヶ月の計15人の甥と姪がいました。私の方は姉の息子3歳が一人でした。
1975年結婚一年後に台北の父母に挨拶に帰国 台北松山空港にて この時インフルエンザにかかってしまって台北の正月は当時は暖房がありませんでしたので、とても寒くて主人の母に中国の綿入れを借りました。玉山という山(ニイタカヤマノボレ)で、有名ですが雪が積もるそうです。
九州大学の恩師井島博士のお宅にお年賀に行きました。先生のご自宅は今宿で子供さんが、三人おられました。一番上のお嬢さんは私と同じ年で、その後九大の篠原教授の息子さんと結婚されたそうで、井島教授と篠原教授がご夫婦で台湾にお見えになった時、井島教授夫人からお聞きしました。お嬢さんには子供さんが三人お出来になったとお聞きしましたが、今はお元気なのかなと懐かしく思い出されます。子供時代を台湾で過ごされた井島教授には大変主人がお世話になりました。 1975年正月 主人は1971年(昭和46年)に国費留学生として日本に来て修士課程と博士課程を終えて1977年(昭和52年)に主人31歳私26歳長女6ヶ月を連れて台北に帰国しました。その頃は日本に里帰りするのに手続きが台湾では一か月必要でしたから夫婦喧嘩をしても一か月後しか出国ができないので馬鹿馬鹿しい限りで元のさやに収まるのでした。私の実家は九州なので台北まで2時間しかかかりませんが手続きが面倒で直ぐに帰国できませんでした。知り合った頃に丁度日本と中国の国交が回復した事もあり私の親戚たちはこの結婚は大丈夫だろうかと、心配していました。母は遠い北海道の人とかのほうが良かった遠くても国内だからと、よく言っていました。結婚生活は同じ国の人とでも色々在るのにましてや国際結婚は更に困難な問題が起きて来ます。
台湾基隆の海洋学院1977年9月長女10ヶ月私26歳主人31歳と一緒に遊びに来ていて帰りに祥豊街の先輩の所に寄って挨拶をしてから台北に帰りました。その時先輩の奥様から私が赤い服を着ているからと、赤いピアスを頂きました。まだこのときは大学ではなく学院でここが正門でした(今はここは裏門です)それから数年後に大学に昇格するのですが、その時教務長(副学長)だった主人が大学に昇格する文部省の条件では非常勤講師をたくさん辞めさせないといけなかったので裁員(リストラ)をした主人はとても恨まれました。汚れ役を引き受けたというところでしょう。主人は短気な人ですが、正義感はとても強く真っ当な学生が不当な扱いを受けていたりしたら必ずその学生の為に奔走するのです。いろんな人がいますから加害者が被害者の様な顔をしたり又被害者が、加害者にされたりと世の中は不条理にできています。次女を妊娠した時に大学の宿舎に引っ越しをしてきました。この場所から歩いて15分のところです。それまでは台北駅まで朝早く主人の実家からバスで駅に集合して海洋学院の大きな薄黄色のスクールバスに乗るという日々でした。このバスは大学関係者は乗れて事務員も乗れますが、学生は乗れません。基隆に越して来て通勤が、とても楽になりました。
1978年1月11日伊万里の実家長女1歳2ヶ月で日晴れ(生まれて一か月の時にお宮参りに着せた着物です)の時の着物を着ています私の叔母が作った木目込み人形で遊んでいるところです。この時実家に三ヶ月滞在して、そろそろ台湾に戻らないといけなくなっていました。そのまま台湾に戻らずに母と娘と三人で博多で暮らす方法もあったでしょうが、娘は主人の国籍だつたので、本来ならば二ヶ月しか日本には滞在できませんから私は娘をおんぶして入管に行き一か月滞在を延長してもらいました。この時の入管の人が早く日本に帰ってきなさいといってくれたのが印象的でした。それほどみんなが台湾は危ないと思っていたのでした。その頃は主人と主人の両親と忙しく暮らしていました。当時は台湾にはスーパーも無く素朴な感じではあったのですが、それまでスライスの肉しか見たことがなかったので豚一匹の大きな肉を何処がどこの部分なのかわからずとても簡単なことが外国では難しいのです。雑貨屋で味噌を買うとハエが入ってたりして言葉は分からずかなり参っていました。豊かな時代の日本から来てカルチャーショックの毎日で、当時の日記に戻りたくないと書いていました。でも家族は一緒に暮らすべきだしと悩みながら戻っていったのを思い出します。
1978年10月4日主人の台中海洋工程討論会に参加するため私と娘も一泊でついて行きました。台中の民族路29号の小さなホテルに泊まり近くのデパートで娘に靴を買いました。2020年に台中に主人と新幹線で日帰りの旅をした時にこのホテルはまだ健在でした遠い遠い昔のことになりました。
1978年10月5日主人の出張先の台中で飲茶を(大大酒店と書いてあります)食べているところです。このレストランは今もあるのでしょうか?43年も昔の事です。
1982年頃です私は生まれて初めて自分の家を持ちました。この頃が一番家庭が平和で幸せでした。いつも実家の母が私たち4人の服や日本の食料品など毎月送ってくれていたのでとても助かりました。その頃はデパートで私がほしいものは売ってなかったのですが、今は何でも揃っているので不自由はしません。今はSOGOか微風に行けば日本の食品はおおかた揃っています。私は台湾がとても好きですが、何故主人と一緒になる道を選んでしまったのだろうと、深く考える事があります。タイムマシーンが在るならみんな戻りたい時代があるのではないでしょうか。多分台湾にはついて来なかったでしょうし、もう一度人生をやり直すことができたらいいのにと思います。
1982年暮ここに引っ越したばかりのころですこの家は私が台北中の出来上がっているマンションをほぼ全部見て回りこの場所が気に入って買ったのでした小学校がすく前にあり、主人の大学がある基隆迄うちから高速道路で20分で着きますので、家具なども全て私の趣味で決めてその頃は駐車場を持つ習慣は台湾には無く見て廻ったなかでも2-3件位しか駐車場はついてなくて日本では当たり前だったので地下の駐車場も購入したのです。その頃は台北の端っこで田舎でしたが、今は家の前に地下鉄の駅が出来たのでとても交通が便利になりました。
この頃は希望に満ちて子育てを頑張り家事も頑張り幸せな毎日でした長女6歳次女2歳私31歳主人36歳私の時代の教育にも関係あるでしょうが学校でも家庭でも我慢は美徳だと教えられ良妻賢母になるように躾られていてそれが当たり前ではないのだと言うことをここに来て段々と理解するようになったのです掃除、洗濯、料理など頑張ってやることはなかったのです。適当にやっていてよかったのですが、やはり文化と歴史の違いなのでしょう私の子供時代は、いつも借家住まいだった為ここのマンションが、もう一軒売りに出た時買いたかったのですが主人に反対されました。私の運命のカードの中で一番いい升目は不動産なのですが、主人は自分が思ったことは貫き通す人なのであっさりと否決されました。今は台北市の家はあの時からすると10倍の値段になり若い人たちが買える金額ではなくなってしまいました。台湾の人(中国人)は何軒も家を買います財テクがとても上手で日本人の発想にはない事です。
1983年12月24日クリスマスにブラザーホテルで主人の学生とその彼女たちも一緒に食事をしました。この頃はここは洋食をやっていて、その後バイキング、そして今は四川料理になっています。この頃、街中には中国服を着た年配者がたくさんいて仕立て屋もたくさんありました。たまに纏足をしていたようなとても小さな足の人を見かけることもまだあった時代でした。
1983年7月6日台北市の自宅でこれから学生の結婚式に出席するところです。
1983年左から兄嫁、一番上の姉、兄、四姉、五姉、二姉、主人の母、私、三姉、主人、台北のホテル五人の姉と兄嫁と私の七人は結婚後は皆専業主婦でしたが、台湾ではそれはとても珍しいことだとよく言われました。いつもお正月の里帰りの日は姉達一家が帰りますので主人が全員をご馳走していました30人以上は(3卓なので36人位)集まっていたでしょう。後は母の日やお母さんの誕生日などで集まることがたびたびありました。二姉からはお誕生日に必ず食べる豚の足の作り方を四姉からは春巻を三姉からは肉粽それと主人の母からは台湾風のフカヒレスープの作り方を教えてもらい除夜に台湾ではご馳走を作って家族で食べます姉達と母は麻雀が好きでよくみんなでやっていました。私も自分の時間がとれるようになり麻雀テーブルを買って主人に教えてもらいましたが、いつも二人でやっていました。姉や兄も亡くなっていて娘たちも一人は結婚しもう一人は留学して二人になっていました。5番目の姉が結婚するころは台湾人と外省人との結婚はタブーでした(今はどうなのか分かりません)5姉の夫は外省人だった為、主人の父はとても怒って5姉にあげるはずだった翡翠の全ての宝石を一個もあげませんでした。周家の里帰りは必ず旧暦の正月の3日と決まっていて本来は台湾の他の家では2日に嫁いだ娘たちが里帰りをしますが、我が家ではその遠い昔まだ先祖が大陸の福建省厦門にいた頃一人の周家の娘が2日に里帰りをしている途中、虎に襲われて死んでしまったそうでその後里帰りを3日にすることになったと主人の父親から聞いたのでした。その父は1978年に77歳で亡くなりました。
1982年6月台湾国立海洋大学卒業式で鄭森雄学長、蔣一安教授、主人(教務長)、後ろの四人は修士課程卒業の学生たちです主人は暑い中長時間式典のガウンを着ていた為に熱中症になり点滴を打って二日間寝込んでいました主人36歳の時のことです。でも地位と名誉と権力とお金を持つと善い事がある分必ず裏に悪いことが待ち受けています。教務長と言うのは日本では副学長にあたりますが、若い時に早く出世すると男も女(あわよくば秘書になりたいなど)も見返りを求めて擦り寄って来ます。その頃主人には若いまともな独身の秘書がいました。事務員は女性が多かったようでした。綺麗だなと思う事務員は私の記憶では三人居ましたが、その中の一人の外省人の年増の人妻が、いいポストをもらいたかったのか、それが一番の目的ではなかったでしょう。目的は別にあったのです。かなり親切に積極的に胡麻を擂り色々と主人の世話をとても長い間やっていました。一番いいのは退職間際に(歳を取ってから)そう言う地位に就くのがベストでしょう。
1985年夏有田の伯母の家何かの集まりに主人や子供たちとお邪魔している。
左から従兄のお嫁さん三人、従姉、叔母、伯母、母、私、有田の伯父さん宅 私の従兄弟たちはとても仲が良くて今もたまに博多に行くと連絡をしたり食事をしたりします
1985年11月長女がおこずかいで買ったチワワとミニピンのハーフのラッキーです膝に乗せているのは次女5歳です。鼻の所が黒くて何だか小熊のようです。ベランダの蘇鉄は主人の実家から持ってきて植えた物です私は子供の頃からの写真でしか見たことがなかった大好きなハイビスカスを近くの市場で見つけてローズ色の苗木を買って来てもう39年になりますが大きな木になって毎日のように花が咲いています。もう一度この頃に戻れたらいいのにと、思ったりします。そうしたら間違った道を選ばずに歩けるかもしれませんが、所詮無理なことです。やはり結婚は同じ国の人と一緒になったほうがいいでしょう。自分の国なら色んな事は自分で解決して処理出来ますが、外国ではいつも家事や子育て以外の事は主人に頼らないといけなかったからです。
チワワとミニピンのハーフのラッキーだいぶ歳を取った時のです私はこの犬が、一番好きでした。子どもの頃飼っていたラッキーに似ていました。 1985年11月から1997年8月迄の12年間私はいつもこの犬に癒されていました。一番苦しかった時の私をそばで見ていてくれた犬だからです。この世はやったもん勝ちの世界なのです正義は勝たない事が多いと言うこと、でも生きていかないといけないのです。私もある時期から色々苦労をしました。平和な暮らしは自分が努力しても叶わないものなのです。人は必ず何処かで苦労をする様に平等に出来ているのでしょう。思いもよらないことが押し寄せてきますが、その嵐を夫婦で乗り越えられることはありませんでした。それは不可能な事でした。その時期は娘が悩みを聴いてくれて相談に乗ってくれて一緒に乗り越えたのだと思います。嵐が過ぎるまで12年が過ぎていきましたが、私は耐えて暮らしました。日本に娘二人と犬を連れて帰り母子家庭になって働いて育てて行く勇気と自信は私にはありませんでした。もう中学生と小学生になっていて、台湾の学校で北京語で学んでいるのに今更どうにも出来ないし、人生は巻き戻しが出来ないのです。前を向いて進んで行くしか無いのです。死ぬより辛い事は人生でたくさんありますが、かなり子供の頃から苦労には慣れていた私でしたが、その12年近くををどうやってやり過ごしていたのだろうと思うと、主人に逆らう事もなく信じていましたが、自分の事ながら私は当時可哀想な妻だったんだと、今更ながら思うのです。長い間キッチンドリンカーになりながら食事を作っていました。やはり私は父親と同じ血が流れているのだと、父親のことを理解したのです。外省人の年増の人妻にはかないませんでしたが、私は我慢強い性格なので、どうにか生きてこれたのでしょう。一番多感な時期の13歳だった娘はそのことが終わって解決した時はもう24歳になっていて、この子のその後の人生の生き方をだいぶ変えていってしまったと思います。その娘が相手の女の自宅に電話をして引導を渡し、その女の軍人の夫も知る事となり我が家の七年間の無言電話はやっと終わりました。言葉が下手な母親に代わり凄いことをして解決してくれて、私はこの長女にとても助けられ、この子にはとても感謝しています。
母が56歳の時から暮らした伊万里の家で私の戸籍上の祖母山口シゲが住んでいた家です。山口の祖母は戦後の農地解放でほとんどの土地を当時の政策により日本政府に没収されてしまいました。その為不在地主の土地は小作人に分け与えることになったからです。この家だけが残りました。私はここには2年程しか暮らしていません 。父が、佐世保の家で亡くなった後に私たちは母の実家の家に引っ越しました田舎なので交通がとても不便でした今は姉が管理しています。小田原梅の木には毎年小さな梅が実って長女と収穫したことがありました。毎年主人と家族4人で夏休みと春の桜の頃にいつも訪れていて子供達は花火をしたり盆踊りに行ったりと懐かしい場所になっているのではないでしょうか。
伊万里の実家1986年正月右側に赤い提灯があります刺繍が素敵で2個買って一つを実家に持って行きました。でも後から兄嫁がこれは結婚の時に下げる物だよと教えてくれました。そう言えば主人の大姉が普通の日に日本人から送られたお盆の提灯を飾っていたことがありました。やはり文化の違いでしょう。時には台湾の常識は日本では非常識日本の常識は台湾の非常識になるのです。台湾の人に綺麗なハンカチや傘や時計をプレゼントするのはタブーなのだそうです。
台北の家の近くの公園です。この頃は公園はほとんどが老人で20人ぐらい朝だけ集まってお喋りをしていました。何でかなと、考えたら日本との違いが、皆大体の日本の老人は、庭に出て花を育てたり草むしりをしたりしていますので、そこが違うのだと思ったのです。
1983年頃四人でよく飲茶を食べに行っていました。今は主人と二人で食べに行きますが、お店の方とも40年近いおつきあいです。
1989年8月奈良の鹿
1990年箱根と日光へ長女14歳次女10歳この頃から長女は私の悩みを聞いてくれる本当に思いやりのある頼もしい娘でした
日光東照宮の左甚五郎が造ったと言われる眠り猫1990年夏休み私たち家族四人と姉夫婦とで一泊旅行をしました
1993年4月母と叔母が東京の姉のところに遊びに行ってました
1993年母と叔母東京で相撲を見に行ったそうです叔母と母は姉の息子(孫)に会うのが楽しみでよく東京に遊びに行っていました。私は母とは相性はよくて大好きでした。亡くなる数年前に又、来世でも親子になりたいねと、私は母と約束しました。叔母は独身だったので甥や姪を可愛がってよくおこずかいをくれる気前のいい人でした。私は主人の母、私の母、それと叔母の死に装束はすべて本人たちが喜ぶであろう着物や草履、服や靴を入れてあげたのです。そして母のお棺には特別に8歳で亡くなった兄の遺影も入れた時、周りからワァーという声が聞こえました。皆もらい泣きしていました。いつもいつも兄の話をして懐かしがっていたので最後は一緒にしてあげたかったのです。兄の遺影を台湾に持ってきた事があったのですが、占いや風水をする人から置いてはいけないと言われ又すぐ実家に持っていきました。うちは男兄弟が無く跡継ぎがいないのでお棺に入れたのです。主人の母の名前に鳳の字があったので黒に金の鳳凰の刺繍がしてある中国服を長女とデパートで見つけお揃いの刺繍の中国の靴を買ってお棺に入れてあげました。主人の父の黒い中国服には5人の娘がプレゼントした純金のボタンが5個付けてあったのを見たことがあったのでお揃いにしてあげました。まだそのころは台湾は土葬でした。何故なのか一族でいつも一番年下の私がすることになるのです。
伯母さんの米寿のお祝い伊万里の山平にて 1997年4月私の母は三姉妹でいつも三人を従兄弟のお兄さん夫婦が一緒に車であちらこちらに連れて行ってくれて楽しかったようです。
従姉の娘尚子ちゃんの結婚式伯父さん夫婦と叔母と母
私の従兄弟とそのお嫁さんや子供たちです私の母と叔母も一緒に写っています。この赤ちゃんたちはもう結婚して子供ができています多分1993年頃だと思います。一番上の従兄(俊輔兄さん)と従姉(邦栄姉さん)夫婦(中山さん)叔母、伯母夫婦と母はもう亡くなりました。左から公典兄さん、忠興兄さん、克則君の奥さん祥子さん、克則君、稔彦君の奥さん浩子さん、喬史兄さんの長女、稔彦君の長男、中山さん、邦栄姉さん、伯母久子、克則君の長男、叔母千枝子、俊輔兄さん、稔彦君の次男、私の母、俊輔兄さんの奥さん喜美代さん、喬史兄さんの次女、喬史兄さんと奥さんの圭子さん、一番右端は忠興兄さんの奥さんの智和子さん。写真を撮っているのは熊本にいる稔彦君だと思います。
叔母は手先が器用でいつも色んな物を手作りしていました叔母は生涯独身でした好きな方がいたそうですが戦死されたそうです
叔母の家の庭のランは大昔私の祖父が植えたらしいです倉庫の近くにはむくろの木があって叔母が倉庫の屋根にむくろの実が落ちる時はとても音がうるさいと言っていたものです昔の人はその皮で洗濯をしていました。私も洗濯をしたことがあって確かに泡が立ちました中の黒い種は羽根突きの羽に付いてる黒い実です。今はもう見ることのないむくろの木65年前のことですが昨日の事のように思い出されます。
叔母の家の草花ここには無花果の木やビワ、ゆすらうめ、そして大きなぐみの木があってそれを食べるのが楽しみでした。でも、もうここも更地になってしまいました。
1998年7月私47歳チワワのジェリー1歳私がリビングで出かける準備をしていると必ず化粧品のにおいが、好きらしく口紅を舐めるのです。今あの頃を振り返ると辛く長い10年の終わりの夏でした。その後の我が家が穏やかだったはずもなく過ごしましたが、私は犬が大好きなのでジェリーの存在は大きかったと思います。私は人間が嫌いです善人より悪人が多いからです。動物と過ごす日々はとても穏やかで動物は嫌がらせをしませんから。世の中にはソドムとゴモラの街に住むような愚かで淫乱な人間がいるということです。私はとても花が好きで、よく家に飾っています。台湾では蘭の花が安く買えますが、この花だけは買いませんし飾りません。その理由は女の名前が若蘭(ローラン)という名前だからです。
1998年姉と母と私義理の兄の運転で明智平のドライブインに立ち寄りました栃木県の華厳の滝に行く途中母84歳姉54歳私47歳
私は結婚してから初めて一人で日本の姉のところに来ました。今までは家族連れのでしたが娘たちも大学生でしたので家族を残して来ることができたのです。母と姉と私の久しぶりの水入らずです。私の母も姉と私もとても苦労をしましたが、母の三人の孫は皆が博士課程に進みました。姉も私も学歴は要らないと子供の頃は思っていましたが、人生はどうなっていくかわからないものです。私の姉は答辞や送辞を読む人でしたから、大学には行かないと言った時、担任の先生が訪ねておいでになりました。。姉は推薦で入れる長崎の活水女子大学に行きたかったようでしたが、我が家にはお金は無く、父は女は結婚したら家庭に入り夫や子供の世話をするのが幸せだろうと話していたそうです。父の母親は今の活水女子大学(梅が崎高女)の初代の卒業生でした110年以上前の事になります。姉が大学に行っていたら違う男性と出会い人生も違ったでしょう。
1996年家族旅行で大分の地獄めぐりに主人は絶対に台湾の温泉には私と行きませんからいつも日本の温泉を廻ります。人は限られた人でしょうが、人生をつまずく三つの事、借金、酒、そして女で破滅の方向に進んでいく人がいます。そうゆうことが無く平和で家族が仲良く健康で暮らせる人こそが勝ち組と呼ぶに相応しいでしょう。人生は人の力ではどうすることもできない事が度々起こり挫折と苦悩と失望を繰り返しながら歳を取って行きます。本当にこの世は残酷でもあり、儚く無常です。
1985年10月26日桃園の六福の動物園にて、主人39歳私34歳長女9歳次女5歳です。この動物園には次女が生まれたころからちょくちょく来ていました。二人とも動物が大好きでした。この頃が我が家は平和で幸せな時間でほんの短い時代でした。
1988年7月19日主人の大学の事務所の会計室の黄素蘭さんの結婚式に招待されました新婦の素蘭さんと新郎の方です素蘭さんにはあれからお会いしていませんがお子さんは大きくなられたでしょう。この年迄は、まだ大学の方々の結婚式に私を連れて行ってくれていました。これから後の10年は私は大学関係の結婚式には参加させてもらえなくなりました。素蘭さんは事務所の綺麗な三人の中の一人です。
1994年1月28日台湾国立海洋大学海洋工程総合実験館の開幕式です主人48歳赤いジャンバーを着ているのは修士課程と博士課程の学生たち この実験館は主に港湾の水工模型実験をする場所で世界の五本の指に入るスケールだそうです。 今は主人の学生が跡を継いでいます。この日のお昼は基隆の海鮮店で学長、同僚、学生、その他取引先の方々と大学の事務の職員達全員と一緒に16卓190人程で食事をしたそうです
1994年春家族で主人の新しい実験館兼研究室に立ち寄りましたが、まだ外壁が完全には終わっていませんでした。この頃から私は犬の世話が必要でしたから大学の事務所の前にあった古い実験館から引っ越した新しいこの場所は後ろに太平洋が広がって毎日ビクターを連れて何度も散歩に行きました。周りには野良犬もたくさんいてドッグフードの缶詰めを持って行ってあげていました。大学には保護活動をする若者たちもいて子犬の里親を探したり白ちゃんと私が呼んでいた母犬はアメリカの家庭に引き取られて可愛がられている写真を見た時とても嬉しかったです。二姉がこの車のナンバープレートが13だから縁起が悪いから交換したらといわれたのですが、この車を買うとき業者が1300か9000の二つから選んでくださいと連絡があり台湾では9(末永くの意味です)をとても好みますが、日本では嫌いますから1300のほうにしたのです(キリスト教の方はいやでしょう)日本では9は苦しむ苦労すると言うので、やはり文化の違いです。
1994年春一月にオープンさせた主人の大型の研究室に日曜日家族で遊びに行った時の写真です。お祝いに送られた樹木や鉢植えには赤いリボンがつけられています。大学の事務所からは遠い所にある為家族で来れるようになりました。。私は44歳の時(実験館オープンの翌年)に長女と二人で教習所に通い運転免許を取得したのですが、あの頃主人から私たち二人に何度も何度も免許を取るようにと言われて娘と二人でしぶしぶ通ったのでしたが、その頃何故か主人の血圧がとても高くなり(ストレスを抱えていた為)この時は基隆まで毎日私の運転で行けたので主人は助かったと思います。そのストレスの原因を私が知ることになったのはそれから4年後でした。主人は仕事や勉強の事では何もストレスを感じる事が無く、とても強気で研究が大好きな人でした。でも私生活ではメンタルが弱く円形脱毛症や顔面麻痺や目の神経が切れる中風に何度もなりました。
1994年1月28日にオープンさせた実験館のパンフレット
主人の実験館で八斗子漁港の模型実験やっているところです八斗子は基隆にあります。
実験館でビクターと水槽を見ている主人あの頃の事を思うと懐かしく切ない気持ちになります。とても手のかかる犬でしたが複雑な思いです。この犬だけは家で飼ってやれなかったので可哀想な気がします。広い牧場のようなところで飼われたらよかったでしょう。でもここはかなりの広さだったので、中や外を走り回れ自由自在に過ごせたビクターは幸せだったと思います。(この写真は実験館のパンフレットの中に載せていた写真です)
1999年1月28日主人の実験館の5周年記念パーティーこの日の夜はブラザーホテル(兄弟飯店)14階で11卓132人が集まりました。九州大学の吉田助教授51歳と私の友人の京子さんと玄ちゃんです。台湾で知り合った京子さんは私より10歳若くて38歳、玄ちゃん8歳でした。私はこの日48歳になりました。友人達からあなたは勝ったのだよとか、旦那さんを取り返したんだよとか言われました。これは誉められているのでしょうが、私の心は複雑でした。或る時期をその時間をその人を選んだわけですし、相手も主人もお互いの家庭は捨てたくは無かったにせよ長く続いたわけですから私からすると喜べなかったのです。飼ってた犬が迷子になり戻ってきたらとても嬉しいでしょうが、この件で嬉しいと思ったことはありませんでした。私の知っている友人はほとんど別居か離婚をしていて夫婦というのはそんなものなのでしょう。みんな何の為に結婚するのでしょう。幸せで平和な結婚生活というものは夢幻にすぎません。
1999年1月28日5周年パーティーに参加するため福岡から来て頂いた主人の同僚の吉田助教授です。昼は大学内の空中大学ビルで立食パーティーで私と娘達も参加する事ができました。この方とは主人が留学中に親しくしていました。
1998年5月20日親しくさせて頂いていた年配の方が着付け教室をやりますよと、誘われてご自宅に伺い参加しました。この着物と浴衣はお借りしたものです。私の着物は全て(数は少ないですが)実家に置いていました。この方には主人の母親が亡くなるひと月前にこの方のご主人の病院に入院させて頂きました。そのご縁でお付き合いをするようになりましたが、もうアメリカに移民されて台湾にはいらっしゃいません。着付けの資格を持っておられたので、とても手際よく教えて頂きました。私は浴衣を着る時パンストを脱ぐのを忘れていました。浴衣の時は下駄は素足ではくものですから。私は20歳の頃はよく着物を着ていて母が夏以外は着物でしたから着方は何となくまだ覚えています。
1995年12月12日環亜ホテル(今は王朝大酒店になっています)の7階で当日親しくさせて頂いていた由美子さんとこの方のサークル仲間のお祝いの席に参加させてもらいました。由美子さんとは短い期間のお付き合いでしたが、外双渓のご自宅に遊びに行ったことがありました。その後家族で博多に移られましたが、病気になられたことを聞き私は娘と二人で、1998年4月6日北九州市の病院にお見舞いにいったことがありました。その後関東のほうに息子さんと病院を移られたとかで、その後はどうされているかわかりません。
1994年12月17日この日は大学の同僚家族や学生家族と友人などを誘ってクリスマスパーティーを開きました。我が家の二人の娘も一緒で61人来来飯店シェラトンホテルで行いました。この頃主人はストレスを抱えていたので、血圧がとても高くなっていました。以前同じマンションに駐在員の奥さんがいて親しくしていましたが4-5年で帰国されました。その方(千都子さん)が、この頃に東京から台北に遊びに来られてお土産の中に私の好きな稲垣潤一のCDが入っていました。覚えていてくれたのだと嬉しかったのを思い出します。
1996年ビクターは主人が長女の為に買った犬でした。広い庭がある家で犬を何匹も育てるのが夢でしたが叶わぬ夢に終わりました。この犬を飼う前に公園に捨てられた子犬を私と長女で拾って帰り育てました。でもその犬は病気が重く一年間病院に連れていっていましたが、その後暫くして死んでしまいました。そのことで長女がとても悲しむので、死んだ仔犬が耳が長い犬だったので主人が、学生のお兄さんからビクターを買ったのでした。私は何匹もの野良犬や骨折をして捨てられたボルゾイという種類の犬を病院に連れていったりしていました。幸い里親が見つかったので、よかったのですが、大学の野良犬たちには缶詰めのドッグフードをあげるだけしかできませんでした。私の30代40代はそうやって生きていました。
1996年ビクター近くの友達がビクターに服を作ってくれましとてもいたずらできりきり舞いになる毎日でした
我が家で飼っていた大型ビーグルのビクターですこの犬は多動犬でうちでは無理だったので二姉の庭で一年か二年世話をしてもらいました。
その後ビルを建てることになり今はここの一階は日本交流協会(日本の領事館)になっています今は鯉が泳いでいる場所です
1997年クリスマス台北の自宅で主人とチワワのジェリー 壁の右側に掛けている写真は主人の両親の結婚式の写真です。この頃はいつも主人は私の肩を抱いて写真を撮っていました。
1997年11月長女21歳のバースデとーチワワのジェリー四か月私と娘たちは犬がいたことで心が安らぎました
この時のジェリーは魔女の宅急便の黒い猫ジジのようでした。ラッキーが12歳で死んでしまいもう犬は飼わないと思っていたのですが、この犬を見てもう一度飼いたいと思ったのですジェリーは15年我が家の家族でした。
2003年1月28日私52歳長女は新婚旅行でラスベガスに行って留守です長女はいつも私を助けてくれありがたかったです。この子は一を聞いて十を知る娘でした。次女はまだ台湾にいてその後日本に留学しました。我が家に陶器が多いのは実家が伊万里で親戚関係は陶器市で有名な有田に住んでいるのでお祝いや引出物などでほとんど母から貰ったりしたものです。二人の娘は同時通訳が出来る子供に育ちましたあの時に私が娘二人と犬を連れて日本に帰り養育費を貰ったとしても私は二人を大学に満足にやれたかどうかわかりません。私の様に高卒で働くのは娘達はきっと望まなかったでしょう。二人には学歴と言う財産を身体につけてやれましたが、その時期に心に深い傷を負わせてしいました。父親の行いとその後の母親の決断で子供の一生は180度違ってきます今はどちらの道が正しかったのだろうと考えてしまいます。私達の家は松山区にあり信義地区とはすぐ隣り合わせで家から歩いて10分のところに女は新北市永和から引っ越して来ていて軍人専用のマンションは軍人は半値以下で、買えるそうです。普通なら台北県に住んでいた人が、台北市内に家を買って引っ越してくる事は高くてできないはずですが、なぜ引っ越してこれたか不思議でしたが、だいぶ後になって絡繰りが解ったのでした。相手の夫は知らずに引っ越したのでしょう。この女の夫の軍人の階級ではここのマンションは階級が高くないと入れないはずです。孫文の別名の逸仙という逸仙新城という名前がついていますからよほど人に頼んで特別に入れてもらって、それほどにしてまで私の主人のいる家の近くにいたかったのでしょう。主人の新しい実験館がオープンしたころですから1994年頃のことになります。そのあたりから主人は顔面麻痺や高血圧になり、いつ私にばれるかとびくびくして女ともその頃から多分昔のように週二回会うことはしなくなったのかもしれません。女の思惑は外れてその4年後頃に二人はとうとう私にその住所がばれて別れることになったのでした。主人も勿論悪いですが、この女も我が家よりもだいぶ年上の娘が、二人いるのに破廉恥でほんとに淫乱な女でした。
最後に飼っていたチワワのジェリー私は動物が好きで特に犬が一番好きです犬は人を裏切りません2012年に15歳で亡くなった時は私も61歳でしたのでもう後15年犬を飼う自信はなかったのでこの犬が最後になりました。1997年から2012年15年我が家に居ました夏は竹のござを敷き冬に絨毯を敷くとジェリーはとても喜んでぴょんぴょん跳ねて嬉しそうでした。それから主人が冬はオイルヒーター(ジャバラのです)を出して座布団と薄いモーフを出してテントのように囲って暖かくさせるのです。この犬が我が家で一番可愛がられました。
同じ国際結婚をしてその後日本に帰られた洋子さん台北に見えた時の写真で神旺飯店で夕食をしました。この方にもいつも大変お世話になっております大阪のホテルには必ず会いに来てくださいます。こちらで国際結婚をしている人たちのサークルで仲良くなった数人の友人は離婚をして日本に帰国か別居をしています。人生は悲喜こもごもです。
ビクターは1998年6月29日にここに二姉の家から返されて主人の実験館の番犬になりました。私はここに台北の家から基隆の大学の研究室に7年間毎日ビクターの世話に主人と通いました2002年7歳頃の写真だと思いますが2005年6月に10歳で亡くなるまで本当に頑張って世話をしました。この犬はイギリスのキツネ狩りの猟犬とは知らずに学生からビーグルと言われて買ったのでしたが、我が家では狭すぎて飼えませんでした。何度も庭のある家が欲しいと思いました。ビクターはカメラが嫌いですぐに走り出してなかなかちゃんとしたのはありません後ろからこっそりと撮りました。お手とお座りは教えていましたが、姉の所ではやらなかったので忘れていて、でもなんとなく覚えていたようで半分手を上げるのです。そのしぐさが可愛かったのが懐かしく思い出されます。この時の車のナンバープレートは婿が教えてくれて陸運局に私と長女と二人で行って100個の番号から選んだのです。毎日100個電光板に番号が出ていて縁起のよい番号を皆が選んでいくのです以前はそんなことは知らなかったのです私たちが知らない世界を婿はよく知っています。この番号はいくらかで買いました。うちのは安かったですが台湾の人は縁起を担ぐ人が、多いので、8888や9999は70万円位するそうです。
1999年6月26日台北リーゼントホテルで行われた鄭学長のお嬢さんの結婚式に出席しました。私の長女の結婚式にも御夫婦で参加されました。とは言っても我が家は大学関係者は誰にも内緒で秘密裏に長女の結婚式をしたのです。そして当日の前の日に5組の夫婦に電話をかけて明日食事会をやりますと、言って来てもらいました。学長、同僚、古い付き合いの学生、友人でちょうど10人それと今も親しくしている学生にカメラマンを頼みました。皆驚いていました。本来ならば喜帖というこれは台湾で配る結婚式の招待状ですが、この11人だけには配りませんでした。この事は私と長女が、主人に出した条件でした。私の姉夫婦や友人、主人の姉や兄たちの家族、婿の家族で約50人とその他の150日人程の人は婿の仲間や仕事の関係者の方々でした。台湾では会社経営をしている人は結婚のお祝い金を受け取りません。みんなではないでしょうが、そうゆう習慣があるようで突然来ていただ頂いた11人には失礼にはならずに済みました。
エジプト航空の機内食ですエジプトはいつもパンが多くて何でかなと思うのです。中学生だった頃に博多で見た念願のツタンカーメンをやっと見に行ける日が来てあれから45年の歳月が過ぎていました。高校の修学旅行に行けなかった私でしたが、世界のあちこちを主人が連れていってくれた事は感謝しています。この時私は60間近で、娘も結婚して孫も出来て普通の暮らしをまた送るようになっていました。
エジプトムハンマド、アリーモスク私たちのツアーがエジプトで初日に行ったところです中は絨毯が敷かれていて荘厳なところでした45歳の頃に家族四人でマレーシアを旅をした時に初めてコーランの響きを聴いて意味はわからないですがとても感動したのを又このエジプトでも体験することになりました。コーランのお祈りは歌のようでホントに心に響くものがあります。
途中下車した場所にエジプトの女性がロバと子羊を連れていましたので写真を撮らせてもらいました
これからナイル川のクルーズの旅が始まります
クルーズ船の中
私達の写真にはある時期からいつもオーブが出るようになりました。今はもう出なくなりました。その頃私は、よく不思議な体験をしていました。私は兄を知りませんが、亡くなった兄が来たことがあったりして、いつも僧侶の姿なのです。僧侶になっていたら生きられたのでしょう。私の母にとっては残酷なことですが、兄の死はもう生まれた時から決められていたのだと思います。
ナイル川下りの船の中です毎日タオルで色々な動物をベットメイキングの人が作ってくれます。ラクダかコブラと蠍みたいです2010年12月
ナイル川の西岸に住む人達は素朴で質素な暮らしをしています。どの家も日干しレンガで作ってあって雨が降りませんから天井はないそうでロバや牛を飼っています庭には棗椰子があってこの棗椰子はカイロのホテルで頂きましたがとても美味しいものでした。
ナイル川クルーズ船から見た西側の夕暮れです人を運ぶ舟が通って行きました
ナイル川下り西側の夕暮れ時の美しさはとても感動してまるで影絵のようで飽かず眺めていました。 この光景は3300年前も同じだったはずでしょう美しいこの風景とファラオの時代に思いを馳せるのでした。
ハトシェプスト女王葬祭殿だいぶ以前にここでテロが起きて何人もの日本人の方が亡くなりました
明け方から砂漠に移動して靴の中は砂だらけです。
朝日を見ようと言いながら連れて来られた所ですガイドの時間の計算ミスで見れず帰りの車の中で見たのでした
途中アラビア人の村で朝ご飯を頂きました。水煙草のパイプもおいてありました。
エジプトは暑いところだと思っていましたが結構寒かったです
朝早くの出発だったので私たちは食欲がなくお飲み物だけ頂きました。
8種類位の料理が並んでいたようでした。。皆さんガッツリ食べていました。
馬車に乗ったのはいいのですがチップを上げないといけませんUSの5ドルだったと思いますが少ないと言われて100ギニーをあげました。とても大きな金額だったみたいで市場の中を揺られながら途中この男性は家に寄り奥さんにお金を渡してきたようでしたそれでも又今度は馬に餌代を欲しいみたいな話をしてきました。エジプトはどこでもこんな感じで少々困惑しました。
ルクソール
メムノンの巨像
ここはエジプトのどこだったか忘れましたガイドさんの話は聞かずに猫が気になって何か食べさせています
イシス神殿
今夜は人の姿のタオルです帽子は主人のです
アスワンダム
小舟に乗って何処かに移動しているのですが船頭の人がお土産を売り出しましたが誰も何も買いませんので、なかなか舟から降ろしてくれません私は木彫りのロバを何個か買ってやっと降ろしてくれました。
ラクダがたくさんお客さんを乗せるために待機しています。エジプトの人達は何故かボールペンを上げると喜ぶみたいで行く先々でボールペンと子供たちにはお菓子をあげました今はコロナのせいで世界中鎖国状態ですラクダ引や馬車やガイドは仕事を無くしているでしょう早く元に戻るといいのですが
これからヌビア人が住む村に出発ですヌビアの村長さんの家に向かいます
月の砂漠のはこんな感じでしょうか
取っ手の棒をつかむだけなので不安定で前だけ見て落ちないように握りしめているのがやっとでカメラを写す余裕はありません
私の念願だったエジプトの旅に行ったのは主人が退官する一年前の2010年の12月末でしたラクダは可愛いのですが落とされそうで周りの景色を見る余裕は全くありませんでした。 並んだところを撮ってもらいましたラクダどうしも仲良しです ツアーの人が帰りもラクダに乗るのなら歩いて帰ると言っていましたが、私も同じ気持ちでした。
ヌビア人の村長さんの家で休憩させてもらいミントティーとパウンドケーキを頂いてトイレを皆で借りたのですが、水洗トイレだったので驚きました。そこの女の子に台湾から持って来たお菓子をあげたらとても喜んでくれました。いつもお菓子類を持ち歩いているのは、主人が糖尿病で急に血糖値が下がるからです。エジプトは雨が降る事はほとんどないそうです。洗濯物を夜中も外に干してあって大丈夫なのかなと思ったのです。
アブシンベル神殿はラムセス二世の石像が並び中の回廊の奥に四体の石像があります。
一年に二度2月22日と10月22日に朝日の奇跡と呼ばれ中のラムセス二世の石像が朝日に輝いてとても不思議な光景らしいです30分ほどの時間だそうです。アスワンハイダムによって水没する運命だった遺跡がユネスコとスウェーデンのダムの技術者によって1071個のブロックに分割されて高い場所に移築され、今私たちはそのおかげで見ることができるのです。
この場所は200年前にイタリアのベルツリオーニが砂に埋もれているのを発見したそうです
これはアブシンベル神殿の裏側に回ったところで小神殿ですこの前後の遺跡は私が1968年17歳の時に引っ越しが完了してこの場所に移されたそうです。ここに来た時私はもう60歳でしたが、14歳の時に見に行ったツタンカーメン展がエジプトにまた来て必ず見たいと言う強い思いと主人が連れて来てくれたおかげで叶えられたのでした。
アスワンからカイロに戻る為にエジプトで一番高級と言われる汽車に乗り移動です二人部屋の個室ですが、トイレは共同でステンレスだったのでで慣れませんでした途中駅員さんが私たちが食べなかったパンを道端の子供たちにあげていたので私も台湾からたくさん持ってきたお菓子をあげようとしたのですが私たちのツアーのエジプト人の女のガイドさんに止められました。主人に話すとプライドがあるのだろうといいました。戦後日本も貧しい時代があってアメリカ人の人が、子供には優しくてお菓子やチョコレートをくれるのです。その時の気持ちはこのエジプトの子供たちと同じだと思ったので子供たちにも食べさせてあげたかったのです外の景色を汽車の窓越しに見ながら3300年前にあんなに栄えた国だったのになあーと思いながら眺めていました。
2010年12月末からから2011年1月初めギザのピラミッドにて クフ王、カフラー王、メンカフラー王のお墓らしいです 主人はこの写真をケータイの画面にしています。
ピラミッドの前で
ピラミッドの石の上に登っていますこんなにも大きな石をクレーンもない時代にどうやっては運んだのかホントに謎です
カイロのラクダはどれも綺麗に飾られていました私たちが降りる時はラクダが前足を折り曲げてくれますが、まるで滑り台のようで振り落とされないようにしがみついてました。主人が前に乗ったらよかったのです。
カイロのピラミッドは街の中にあってとても以外でした砂漠の真ん中辺りと思っていたからです
ピラミッドとスフィンクスこの近くにピザハットがあってそこからの眺めはとても良いそうですエジプトは面積の95パーセントが砂漠だそうです。
スフィンクスだいぶ顔などが崩れていました私たちのツアーが台北に着いた2011年一月初め頃でしたがその次の日エジプトにもアラブの春のクーデターが起こり私たちは難を逃れたと思いました。数日遅れたら出国できなかったでしょう。
屈折ピラミッドです余談ですが、こちらの女性がかぶっているスカーフ(ヒジャブ)は皆さん待ち針で止めていてなんか危なくて安全ピンのようなものがないのかなと思ったのでした。ボールペンよりも小さな安全ピンを持ってきてあげたら喜ばれたかもしれません。台湾や日本なら何かいい留める物を作っただろうと思いながら皆さんのヒジャブを眺めるのでした。
階段ピラミッド
カイロ博物館ここで昔14歳の時に博多の天神ビルで見たツタンカーメンを45年振りに見ることが出来ました中学生だった頃父母と佐世保から汽車に乗って寒い時でしたが見に行きました。いつか必ずもう一度見たいと思ってました母がツタンカーメンの顔を彫刻してある金色のペンダントを買ってくれました500円だったと記憶しています。母がいつか本物の金のペンダントが買えたらいいねと言いました。(この頃はカメラは持ち込み禁止でした)
カイロの飛行場で買ったラクダとロバの置物ですアラビアンナイトの中に出てきそうなラクダですピンクの瓶は砂が入っていて絵が描いてあります。これは長女一家のドバイ土産です。ラクダは財宝をロバは薪と水と食べ物を乗せています。
台北からイスタンブールでトランジットしてイタリアに到着しました。ここから一人一個の大きなトランクを引っ張ってクルーズ船に乗り込みます手続きはクレジットカードの登録をして船に出入りする為の首からぶら下げて廻るカードを貰って船に乗り込みます地中海クルーズの二週間の旅の始まりです。
私たちが2週間過ごす船内の部屋ですベットの上のビニールは、この上にトランクを置いてクローゼットなどの引き出しに衣類などをしまいます主人の下着はクリーニングに出しましたが、私は16セットの下着を用意しましたベットメーキングの人は男の人なのでさすがに下着を干すのは抵抗があります。
カーニバル号一日中船に乗って翌日はどこかの港に着いたら朝から観光で夕方に帰って船で食事をするを繰り返していきます。一日中船の中ではのんびりして海を眺めたりきれいな沈みゆく夕陽をぼんやりと眺めたりとても楽しく過ごせます。
2012年夏主人と二人で地中海クルーズの旅に参加しました2週間この船でベニスから出発しクロアチアのドブロブニク、シシリー島、ナポリ、ローマ、フィレンツェ、モナコを観光してスペインのバルセロナで下船して空路でイスタンブール空港から台北へ戻ります船はアメリカの船でカーニバルブリーズ号13万トンで乗客は2500人ぐらいいたでしょうか二人部屋のベランダ付きのにしました。この船は二度目の航海でこの旅が終わったらアメリカ航路に戻りカリブ海の方を廻るそうです。本来はバルト三国のクルーズを予約して頼んでいたのに旅行会社の人がチケットの予約を忘れていてキャンセルしてこちらのツアーに参加したのです。もう一度クルーズの旅をしたいと主人は言っていましたがコロナになりもう行くチャンスはないでしょう。
ベニスで イカ墨のパスタを初めて食べましたデートするカップルにはお勧めできないですね、お歯黒のようになりました。
このパスタを食べたお店のオーナーの奥さんは日本人でした
ベニスは古い街並みでとても素敵な街でした。ここで目にした見覚えのある硝子細工のピエロの人形、昔次女が、お誕生日にクラスの女の子が持って来てくれて、いいものだからと、無造作に古い紙に包んであってプレゼントしてくれたのが、ここのベニスの特産品だったのでした。ベニスのものとは知らずに長い間飾っていたのです。台湾で作ったピエロだと思っていてベニスのお店のウインドに200ユーロと書いてあったようで高価な物をくれてたのだなと改めて思います。このピエロをくれた女の子は性格が良さそうな子でした。何人も女の子を見ていますので自ずと優しい子意地が悪い子の違いは直ぐに分かります。
カーニバル号の中で一度だけアクセサリーなどのバーゲンセールが行われますが、人がすごくて中には入れませんでした。
船の中で朝食を食べるレストランです大きな窓から朝日を浴びながら頂きます
この朝ごはんのレストランですが、時間外はソフトクリームとピザと飲み物は何時でも好きな時に食べても構いません
主人は甘党なのでいつもここでソフトクリームを食べました(血糖値高いのですが)
ベニスのゴンドラの乗り場です
ベニスのゴンドラに乗っていますツアーの人と6人で乗りました降りるときは船頭さんの帽子の中にチップを払います
6人で乗りましたこの方たちはご夫婦と息子さんとご主人のお母さんです
サンマルコ広場のカフェでお茶とお菓子を注文しました。ここで食べたら、お店のトイレを使わせてもらえますチップはトイレの前で払いました。昔見た旅愁という映画に出てくる所だと思います。Katharine-Hepburnと言う女優さんが、出ていてとても面白いのですが、最後アメリカに帰国して行く彼女の汽車が遠く離れていき間に合わない男性がくちなしの花を見せるラストはとても切ないシーンでした。
カーニバル号で開かれるドレスコードの日です背広やドレスを着てディナーを頂きます。
ドレスコードのディナーの日ですみんなタキシードや色んなドレスの人がいてみんな華やいでいました。
ドレスコードの日ですこれからディナーでベランダに出て写真を撮ってます。
ディナーの席は決まっていて常に同じレストランで同じツアーの方達と食べます毎日メニューが違っていて席についてから選びますこの日はほうれん草のスープを選びました
毎晩メインディッシュを選びます私たちはロブスターとステーキを頼み半分ずつ頂きます毎日コレステロールの嵐でした
クロアチアの城壁の上からのの眺めです長女がここのウインブルドンの選手のイバニセビッチのファンでした。可愛らしい街で確かこの場所は魔女の宅急便のモデルになっている所ではなかったかなと記憶しています。
今日は帰ったらウサギのタオルが出迎えてくれました
イタリアシチリア島のギリシャ劇場跡奥の山はエトナ火山ナポリのベスビオ火山のポンペイ遺跡コースは入っていなかったので、いつかまたと思っていましたが、もう行くのは無理でしょう。
何処のお店だったか忘れましたが白い猫が店番をしていたようです
バチカンの前です17年前に主人が仲間や学生と学会で訪れた時、聖堂の中にあるお店でアメジストのピアスを買ってきてくれました。この時は時間が無くてそのお店には入れませんでした。
イタリアのスペイン広場オードリーヘップバーンがソフトクリームを食べたところです。
イタリアの有名な噴水の前です人が多くてコインは投げられませんでした。このトレビの泉にコインを投げると又再びローマを訪れることが出来ると言われています。もう私たちは多分行くことはないのでしょう。
これは何を作ったのかよくわかりません
同じツアーの方で台中バスを経営されているご家族だそうです。
モナコは高級なヨットがいっぱい停泊していました
今夜は豚さんが待っていました
鳩がすごくたくさんいて自由気ままに生きている感じでした。
イタリアフィレンツェ天国の門ですフィレンツェは皮革職人のお店にも行きました。
ピサの斜塔は中に入れるらしいですが疲れてしまって写真だけ取りました。
モナコ公国の高台から見た私たちが乗っているクルーズ船です。
スペインのバルセロナガウディの作品だそうです
これもガウディの作品ですトカゲかな?
スペインバルセロナまるで童話のヘンデルとグレーテルのお菓子の家のようです。
スペインの家グリム童話の中にいるみたいです
スペインサグラダファミリア
二回目のドレスコードの日は10年近く前に娘の結婚式の時に着たチャイナドレスとスーツです。ここにカジノが並んでいて主人の四姉夫婦がとてもカジノが好きで毎週マカオに行って私たちも何度も何度も誘われたのですが、興味が無かったので行きませんでした。この時はもう二人とも亡くなってましたがカジノを見ると思い出します。
船の中には色んなお店がありますここでブルーダイヤの指輪と娘たちにはペンダントを買いました。隣の女性はお店の方でドミニカ共和国から来ているローズさん。ブルーダイヤは以前台湾では一度だけ見たことがありました。ピンクダイヤはたくさん見かけます。
カナダナイアガラの滝です何の鳥でしょう
ナイアガラの滝この後船に乗ります
私はナイアガラは初めてです
主人は40代の時に同僚と学生それに次女と来たことがあります
ナイアガラの滝の近くにあるレストランでお昼ご飯を食べてから船に乗ります。
これからこの船にレインコートを着て乗ります
滝のしぶきでみんなびしょびしょです
瀧はアメリカ側とカナダ側があります夜はライトアップされるのですが主人も私もくたびれて寝てしまい見れませんでした
ナイアガラの滝に虹がかかりました
マリオットホテルですここの上にあがったのですが床が硝子で怖くて下を見れませんでした
カナダとアメリカの中央にあるオンタリオ湖の中に浮かぶ大小の家々です
アメリカのお金持ちの夫が妻の為に建てたそうですが建て終わった時には妻は亡くなってしまいその夫はその家にその後来ることはなかったそうです。ここの家ではないと思います。
カナダ国家図書館
総督府の芝生で
ここの町で氷の上で作るメープルシロップのキャンディーを買いました
世界文化遺産の標識
馬の水飲み場です
カナダのケベックで馬車に乗りました
カナダモントリオールのホリデーインホテル
カナダの紅葉は日本のと少し違っています背が高い木がほとんどです。
カナダからアメリカに入る国境です。ここでバスの中の荷物を検査されました。
我が家の重たいタンスの扉の引き戸が外れてせっかちな主人は一人で持ち上げ坐骨神経痛で杖を持ってツアーに参加ですここはハーバード大学の中庭でほかの方々は大学の中を見学に行っています。せっかくの旅なのにバカみたいです。
ハーバード大学の中のカフェで休憩です主人は腰が痛くて中を廻れないので孫や娘達にここのトレードマークのあずき色のブルゾンやシャツを買いました。
マサチューセッツ工科大学を見学しました
ロブスターを頂きました
ウオール街ですこの場所はニュースでよく出てきますそれとブロードウェイも通りました。
船に乗って自由の女神を見ました
キングコングとツーショット写真
ニューヨークのエンパイアステートビルの展望台です。映画の中でキングコングが登ったビルでここでぬいぐるみを買いました。この望遠鏡はトムクルーズの映画オブリビオンに出てきてました。
エンパイアのビルとロックフェラーのビルも外から見学してタイムズスクエアとセントラルパークは主人の腰が痛いため私達は近くをぶらぶらして過ごしました。
ホワイトハウスとリンカーンの銅像がおいてあるところも腰が痛い主人とバスの中でした
フィラデルフィアここでも主人は腰が痛くてバスの中です
伊勢神宮はあいにくの雨でしたが参拝して、と言っても私達は中を見ることは出来ません皇族の方々だけが中に入れる場所です。ここで有名な赤福を頂きました赤いぶんぶく茶釜が光っていました。鳥羽のホテルに泊まりましたが、不思議なことが起きました海の中には真珠貝のいかだが並んでいたのですが、主人とレストランで朝食を食べているその時主人は丁度トイレに行って私だけ海を眺めていると海の中にお坊さんの顔が浮かび上がりました暫くして波が消してしまい一瞬の出来事でした。それと比叡山の根本中堂の前で撮った写真に釈迦の涅槃像と平安時代の女の人と子供であの時代の十二単のような姿の女性で子供は男の子でした。親子だと思いますが二人ともニコニコ笑っていました。それとその時代の服装の男の人が写真の中に撮れていて不思議でした。何のために写ったのでしょうか。今でもたまに思い出します。
奈良斑鳩の法隆寺の枝垂桜が見事に咲いてました聖徳太子622年没、後に親族達の山背大兄王達一族は蘇我入鹿によって滅ぼされました。法隆寺は聖徳太子(厩戸皇子)の怨霊を封じ込める為に建てられたと聞きました。
法隆寺五重塔ここの中に珍しい仏像があって観音菩薩だったと思いますいつもは見れないそうですがこの時期見れると聞いたのでここに来たのでした。その像は聖徳太子をモデルにしているような事だと記憶しています。
九州の小倉にある河内藤園ですそれは見事な藤園です CNNに選ばれた世界で10位の中に入る花のトンネルだそうです。
CNNで取り上げられてからとても観光客が増え持ち主は困惑している様子です根っこが観光客に踏まれて痛むからです
2015年5月熊本の水前寺公園です。ここには中学生の時に修学旅行で訪れたことがありました。
水前寺公園の中の茶室で、ここでお茶を頂きながら築山を眺めています。
熊本城も何回か来たことがありますが、この後、地震で崩れたのを台湾でニュースで知りました。
富山の旅、立山黒部アルペンルート雪の壁ですロープウェイやトロリーバスなどに乗って来ました。映画黒部の太陽に出てきたダムも見学しました。
飛騨高山のお店の藤棚がとても綺麗です
上高地にやって来ました。主人と私はツアーから離れて河童橋を見ながら喫茶店でお茶を飲んでいました。お土産店で孫の好きな縫いぐるみの河童などをを買いました。
南禅寺の中です紅葉が綺麗でここは奥に入った所です。
福岡2019年春の舞鶴公園
主人と長崎を旅した時に眼鏡橋に立ち寄りました。私の父が長崎中学の時の自宅の住所名簿がこの近くで八幡町になっていましたので訪ねてみました96年も前の事です2019年5月
2019年5月長崎に遊びがてら先祖のお墓参りに来ました、ここはいつも来ている大浦天主堂です。父親の実家のお墓は長照寺でかなり上の方に登りますここに大津家と福田家が二つ並んであって私の高祖母(一人娘だったとか叔母から聞いています)の実家が福田家みたいですお墓の敷地に二つの家のお墓は良くないと聞いたことがあったのですが、やはり大津家は世界大恐慌の頃からなのか定かではないのですが没落してしまったのです。父の大津家の兄弟は兄の新太郎、弟光男、歌子、勝子、愛子と父とは20歳年の離れた妹の徳子叔母さんだったと聞かされています。実際に会ったことがあるのは熊本の徳子叔母さんで何枚も油絵を頂きました。愛子叔母さんは一度だけ父が亡くなった後でお会いしたことがあります。父が養子だったこともあり私が親しくしていたのは徳子叔母さんだけでした。
リンガー邸ですリンガーはリンゲル液(点滴)を作った人だそうです。私のひいおじいさんやおばあちゃんもこの家に頻繁にきていたのでしょう
グラバー邸はこの時修理中でお休みでした階段を下ると必ずこの場所を通りますお土産を買って帰りました おくんちの時の船だと思いますが、オランダ漫才や龍踊やペーロン競争などの話を父が昔話していました。
長崎に来たら必ずこの店に寄ります茶碗蒸しと蒸寿司が有名です
吉宗は歴史が古く父親の先祖たちもここで食べていました玄関には下足番の人がいます
この写真は主人と私が2019年5月長崎を旅した時に泊まったANAクラウンホテルの部屋に置いてあったヒストリーオブグラバーガーデン40アニバーサリーの本の中の絵葉書です私がこの中に書いてある人と縁があるものなので譲ってくださいとフロントの方に頼んだら非売品ですが、持って行って構いませんとおっしゃって頂いたものです父親の母方の祖父がリンガー商会に勤めていたので懐かしく思ったからです又いつか訪れてフロントの方にお礼を言いたいと思います。
2016年有田の従兄と奥さん横浜に住む娘さん夫婦が4人で台湾に遊びに来て皆でティンタイフォンで食事をしました。丁度台湾のお正月の時です従兄弟の奥さんの智和子さんは有田の家で会うたびにここの料理が美味しかったと何度も言っていました。私の従兄姉は6人ですがもう3人しか居ません。この3人の従兄弟たちも亡くなった従兄弟たちもとても皆夫婦が仲良くて家庭の中でのトラブルを聞いたことがありません。皆愛妻家なのです。
姫路城に行きましたがお城が何だか真っ白にお化粧をしているみたいになってますね。
稚内のANAクラウンホテルの前の稚内駅ですこのレールは日本最北端にあるレールで駅からここに観光客が見れるようにと、この場所に移したそうです。
サロマ湖にある鶴雅ホテルでここの食事は私が今迄旅をしたレストランの中で一番美味しいと思いました。ホテルで知り合った親子連れの方もわざわざ旭川からバイキングをお目当てに来るのだそうです。
トナカイ牧場に行きました餌は手からしか食べません草の上に落としても食べないので私の手の上で食べさせていました。
クッチャロ湖の売店に九州の方がいてびっくりしました。博多の方でお兄さんが九大卒でアメリカに住んでいらっしゃるそうです。分かっていたなら何かお土産を台湾から持ってきたのにと思いました。
オシンコシンの滝です。ここはツアーに参加しないとなかなか来れない場所です。
日本の最北端の地、宗谷岬にやって来ました。主人は観光と視察で北海道には20回は来てると思います。私も数えきれないぐらい来ています。私の母は若い頃から北海道に住みたいと思っていたそうですその夢は叶えられなかったのですが、北海道は私が子供の頃はすずらんが有名でした最近はあまり見なくなりました台湾からインターネットで母の日にすずらんを母と叔母に毎年送っていました。私が20歳のころに何かのイベントのハガキで北海道のフェリーの旅が当たり母に上げたことがありました。知床丸だったと記憶しています。お金は無かったので東京の晴美埠頭から函館を往復するだけで東京在住の女学校時代の友人の家に泊まったようでした。30代の頃なら母に北海道のツアーのお金などは出してあげられたのにと思いました。
2016年夏北海道の島礼文島に来ました。北海道を時計の逆に回りフェリーでここと利尻島も回りました高山植物が色々咲いていて自然がいっぱいでした。
太宰府天満宮令和元年(2019)に5月からなりました。丁度その時ここに来て居て令和の旗がお土産店には沢山立っていました。
令和になってから人が増えた坂本神社で万葉集の中に出てくる梅の木はどこですか?と聞きましたがそれはもうないそうです。1290年前の梅が在るはずはないですよね私たちは知り合った時からこの太宰府には頻繁に来ていました。天平2年730年正月旧暦なので2月頃でしょう、時に(初春の令月にして気淑く風和ぐ梅は鏡前の粉をひらき蘭ははい後の香をくゆらす)大伴旅人(大伴家持の父)がこの太宰府で詠んだ歌から令和になったそうですね。たくさんの歌人の中から選ばれたのは凄いことです。
いつも行く太宰府の梅が枝餅のお店でお抹茶と梅が枝餅を頂きます。太宰府は知り合った頃から私達のデートの場所でした。菅原道真を慕って京都から飛んで来たという飛梅の前でいつも写真を撮っていました。
太宰府の近くにある料亭です。水月庵ここでお昼を頂きました。お店の方が佐世保の方だったので意気投合してお話ししました。
2019年7月京都宇治の平等院鳳凰堂です。幼馴染の龍子ちゃんも一緒に行きました。十円玉の裏に描かれている所です。
私達は遠くに離れてもいつも連絡しています。
京都永観堂紅葉が綺麗ですが人も多いです。2019年11月26-12月4月に大阪と京都を観光してから台湾に帰ったら武漢肺炎が流行りだしてそれから世界中に広がりもう旅はできなきなりました。私の母が生きているときは年に2回家族で里帰りをしていました。
私の古希のお祝いに学生の奥さんが動画を作ってくれましたここを押すと音楽が流れます
私の古希のお祝い2021年1月28日ホテルオークラ台北にて
主人はせっかちで短気な人ですが、私は争いを好みませんだから相性は合うのだと思います。来年は出会って50年になります。主人は私をとても愛してくれて私も主人を愛しましたが、一番充実していた時期にとても私は辛い日々を送りました。人は何処かで間違った道を選びます善と悪なら悪の道に進んでしまうのです。その苦労や辛さに妻が或いは夫が耐えられない人が離婚を選ぶのだと思います。私は主人と人生をもう一度一緒に歩いていく道をその時選んだのです。私はまだ若さが有ったその頃を無駄にしてしまいました。解決した時私は50近くになっていました。選んでいない道は歩いていないのでどうなったのか、その人生の景色はどうゆう結果になったのだろうかと考える事もあります。私は汝の敵を愛せよの言葉よりも目には目を歯には歯をの言葉の方が人間らしいと思います。汝の敵を愛せるのは大いなる神にしか出来ないのではないでしょうか。人生は諸行無常です。長く夫婦をやっていくと言うことは、我慢と努力と忍耐と妥協そして最後に残る物は愛情と思いやりではないでしょうか。平凡に生きる事ほど難しいことはないのではないでしょうか。
学生たちと集まってお祝いをしましたが、あの頃20代だった学生たちも私たちも随分と歳を取りました。私を何としてでも台湾から追い出したかった人にいつも主人の行動やスケジュールの状況等を教えて手伝った人が今は病気になりました。そしてその一番卑劣で卑怯な事をして当時、我が家を崩壊させた人は何かしらの裁きが下るでしょう。もうそうなっているのではないでしょうか、そんな感じがします。私はそのことを30年近く前にこうなるからと結果を、ある老人から聞いていたのです。自分が蒔いた種は自分で刈り取らないといけないのです。私の長所である我慢強さは、ある意味短所でもあります。あの頃、鬱病にもならず長女や台湾に住んでいる日本人の友人以外は味方はいない外国で色んな嫌がらせと戦い30代~40代を過ごしてきて振り返れば精神的に私はとても強かったのでしょう。
2021年2月台北の101で食事をしました頂鮮86階(海鮮店の方が開いているお店だそうです)夜景がとても綺麗ですここのトイレの中が喫茶店みたいになっていてそこからの夜景が更に綺麗です私のお気に入りのレストランです。何かのイベントの時に行くようにしています。二階の受け付けから60階までのエレベーターに乗りそこから違うエレベーターに乗り換えて86階に到着です他にもイタリアンや台湾料理のお店もあります。台湾料理の欣葉はやってないそうです。日本から従兄弟やその子供たちが来た時もここに連れてきました。博多にいる従兄弟夫婦はトイレが綺麗だと言って写真を撮っていました。久しぶりに博多の従兄弟の兄から連絡があり去年から初孫の世話でアメリカにいるからと、なぜ奥さんではなく兄が手伝っているのかと言うと英語が得意で、家事もやれるからなのです。孫の世話と犬の散歩をしていると言っていました。楽しくやっているようです。
翡翠の白菜は光緒帝の皇后のお嫁入り道具なのだそうです。それにまねて小さな白菜にあんかけのたれに絡ませて干しエビが載せてありましたやはり日曜日なので博物館もレストランも混雑していました。2021年4月4日故宮博物館の白菜とリーゼントのレストランの白菜
2021年4月4日台湾は子供の日になります日曜日でしたが主人が急に故宮博物館に行こうと言い出して急いで出かけました。ここは駐車場が少なくダメもとで行ったら運よく入れて博物館の前にリーゼントの支店のレストランがありますコロナのせいで観光客がいないため土曜日と日曜日しか営業していないのですここで以前から食べてみたかった三種類の品を注文しました。博物館の一番人気の翡翠の白菜と皮がついている豚肉を真似て作った角煮です周りの緑色の野菜は水蓮菜です。これらはここでしか食べれないので今日はラッキーでした。
多宝閣甘点集という名前の宮廷のお菓子です。寿桃、みかん、黄色いアヒル、角煮の羊羹、白菜、金木犀の香りのゼリー、ピーナッツの粉をかけた餅、白菜の下のは羊羹の様な感じでした計8種類で目で楽しめるお菓子です。
晶華飯店Silks-Palace2021年5月
鴛鴦の牛肉麺で二つの味が楽しめます。今は75と70の爺さん婆さんになって2人でおしどりの麺を食べているのです。主人と私は実際はとても仲がいい夫婦に入ると思っていましたが、人生とは人間とは男と女とは夫婦は何の為に共に歩んでいくのでしょうか?これから先の世も永遠に答えは出ないのでしょう。一部の男と女には一夫一婦制は難しいのでしょう。この世で一番愛してくれた人が、一番この世で傷つける事ををするのが、夫婦です。でも別れない限り生活を共にしていかないといけないのです。色んな夫婦が、自問自答しながら生きていくのでしょうし、私は老後を迎え自分の人生の学びは何だったのだろう何のために生まれて来たのだろうと考える次第です。
元の時代の水墨画で黄公望作の富春山居図
ミルクをかけると風景が浮かび上がります墨戯仙草という名前のデザートです
故宮博物館の中にある子爵、爵というのは入れ物の意味らしく日本人が知っている公、候、伯、子、男の子爵の意味ではないそうです。
仕女豆沙包で唐の時代宮廷につかえる女性の顔をかたどった小豆のあんが入ったお饅頭です。
翡翠の白菜は私が23歳の結婚の時に初めて見ました。光緒帝のお妃のお嫁入りの品だそうですが、人は亡くなってもこの様に主の元を離れいつまでも残るものなのですね。(赤い色のは白菜を支えるための台でその下は植木鉢です)2021年5月